静かなストライキの起こし方 3

物騒な革命、しずかな革命

 万国の労働者よ、団結せよ、という有名な煽り文句がある。マルクスの『共産党宣言』(1848)によって知られるようなった言葉だ。Wikipediaによれば、初出はフローラ・トリスタンという女性フェミニストの『労働者連合』(1843)だという。気になったので、英語版に目を通してみた。しかし、それらしき煽り文句は見つからなかった。そのかわりに、エピグラフには「Workers, unite-unity gives strength」とあった。「労働者よ、団結せよ。団結は力なり」とでも訳せるだろうか。しかし、引用元が記されていない。そこでさらに仏語原文にあたってみると、問題のエピグラフのところに次の記載があった。

Ouvriers, vous êtes faibles et malheureux, parce que vous êtes divisés. - Unissez-vous. - L'UNION fait la force. (Proverbe)

労働者よ。きみたちはか弱くふしあわせである。それはたがいに分け隔てられているせいだ。団結せよ。団結は力なり。(ことわざ)

 ことわざ、とある。まぎらわしい書き方がされているけれど、ことわざであるのは「団結は力なり」の部分だけだろう。残りの部分は、著者がシャルル・フーリエのような先人から学んだ考え方であると思われる。団結が力になるという考え方自体は、ちょうど「分断して統治せよ divide et impera」という裏返しの考え方が古代ローマからあったように、はるか昔かあったはずだ。ただ、労働者(プロレタリアート)という団結の単位が生まれたのはさまざまな革命の起こった18世紀後半ということになるのだろう。
 しかし、そんな労働者という言葉も、現代の日本ではさして使われなくなってしまった。もしいま仮にマルクスが「労働者の諸君!」と路上で呼びかけたとしても、きっとだれも足をとめて耳を傾けることはない。「そこの社畜!」とか「お前、ワーキングプアだろ」というような煽り文句のほうがまだ振りむく人が多いかもしれない。しかし、そこでさらに「団結しろ」と言われても困ってしまうだけであるのは目に見えている。いまから革命を起こすから、協力しろ? 陰謀論にでもかぶれているのか? ということになる。
 現代では、人を扇動することが困難になった時代なのかもしれない。すくなくとも、目に見える形での革命、つまり「物騒な革命」を夢見ることは難しい。そういうものを真面目に信じているのは、カルトの信者くらいである。米国の福音派でも統一教会でもいいけれど、彼らはいつかどこかで世界が様変わりするところを夢想している。そして結果的にはそれが保守の思想につながるというねじれ現象も起きている。
 日本にも55体制というものが現在進行形である。CIAのフロント組織である自民党の独裁体制である。何世紀にも渡る植民地主義の経験から帝国が学んだことは、武力による支配はかならず反発を招くというものだった。そして、現地の人間が団結をしてゼネストを起こすだけで、支配体制は崩壊する。1945年以降に日本を統治することになる米国もそのことがよくわかっていたから、人心の掌握をした上で、角の立たない形、つまりあくまで物騒ではない形で長期的に植民地の養分を吸いあげてゆくという戦略をとった。それが功を奏した結果こそが現代の日本の姿でもあるのだろう。
 物騒な試みは、物騒な反発を招く。たとえば、市民による暴力革命の試みは、武力によって鎮圧されることになる。市民は武力の前に無力ではある。その一方で、市民の団結は権力者による支配に割りを食わせ、支配を諦めさせることができる。だから、権力者は市民が団結をしないように、ひそかな人心掌握の形を模索する。カエルを生きたまま茹でるのには、熱湯ではなくぬるま湯が要る。
 本当は、そんなぬるま湯のなかでも、ゼネストさえ起きれば、いろいろなものが一瞬で様変わりをする。たとえば、日本には新卒採用という資本家にとって都合のいい仕組みのなかで、労働力の買いたたきが毎年行われている。まだ未熟な若者は自分が労働力の安売りをしていることにも気づかないまま一人前の「社会人」になろうとする。そういう現状を変えるためには、すべての新卒の学生が就職を諦めたらいい。そのかわりとして一斉に生活保護を受給すればいい。それをするだけで、20代という貴重な時期の叩き売りをせずに済む。
 しかし、現実には、そのようなことが決して起こることはない。札束に叩かれただけで連帯はいとも簡単に切り崩されてしまう。みんな、お金がほしい。そしてまさにお金の前に跪拝してしまうことが、逆説的に、貧乏を招いてしまう。いわゆる囚人のジレンマである。
 このような現状のなかで夢見ることができるのは、労働者の団結によるゼネストのような物々しい形の革命なのではなく、静かな革命なのかもしれない、と僕は思う。ひとりぼっちの革命、と言いかえてもいい。ひとりで奮起して街頭で角を立てるようなことを叫ぶとかそういうことではなくて。ただ、ひとりでドロップアウトをして、ひとりで生きる。そのこと自体はとても簡単にできるので、実際、目に見えないひとりぼっちの革命はいまも路上のそこかしこで起きている。
 あるいはいっそ、そのような革命を強いられている、と言うべきなのかもしれない。強いられたひとりぼっちの革命は、不幸な革命だ。だからきっと、革命をするにしても、人のぬくもりが要る。